3.生きているということ

「……母さん、おはよう」

慌ただしく出掛ける準備をしている母に、おずおずと声を掛ける。
すると母さんは、俺の顔を見て笑った。

「ああクラウド。おはよう、やっと来たわね。さあ、早く座ってご飯食べなさい。母さんこれから仕事に行って来るから」

自由奔放に跳ねまくる俺の髪を、くしゃりと撫ぜる温かい手。
母さんの髪も後ろに一つ纏められてはいるが、それ以外の部分は四方八方に跳ねていて、この髪質は母譲りのものだったなと感慨深く思う。

「うん……行ってらっしゃい」

遠慮がちに小さく手を振れば、抱き締められたので驚く。ビクッ、と肩が揺れてしまったが不審に思われなかっただろうか。
そろりと視線を上げて母さんの表情を見ても、特に何の変化も感じられない。
良かった、何とも思われてない。

……そう言えば、ココで暮らしていた時は挨拶としてやってたな。
どうやっていたか、漠然としか思い出せないが取り敢えずこちらも手を回せばいいんだろうか。

「行って来ます、良い子で留守番しててね」

額にキスをしてから、出掛けて行った。
なんだか、嵐が過ぎ去った後みたいだ。


元気に生きている母の姿。
大切に、愛情を与えて俺を育ててくれた人。
あの頃の俺は、そのことに頓着せず子供を育てることがどれだけ大変で、すごい事なのかも解らず。
ただ英雄への憧れと、弱い自分を皆に認めて欲しくて強くなろうとニブルヘイムを飛び出した。

恩を返す事も、助ける事も出来ずに炎に呑まれた故郷と共に失くした存在。
久しぶり、なんて言葉では言い表せない程遠い過去、喪った筈の存在が其処に居る。
こうして笑い掛けて抱き締めてくれる。挨拶の習慣としてハグして、額か頬にキスをする。
もっとも、ニブルヘイムにこんな習慣は無く母の生まれ故郷の習慣だと聞いたが。

母さんを玄関から送り出したあと、その場で佇んだ。
感慨深いものが有り過ぎて胸がいっぱいだ。
今でも、本当はこれが現実ではなく夢なんじゃないかと疑っている。
でも夢にしては感覚が生々し過ぎる。
せっかく、もう一度過去をやり直せるかも知れないチャンスを与えて貰ったんだ。
出来るだけのことはしてみよう。



「……美味しそう」

食卓の上に並んだ、決して豪華とは言えなくても俺の為にわざわざ用意してくれた食べ物。
これまで感じていなかった空腹感と飢餓感が同時に押し寄せてきて、その欲求通りに席に付く。
スプーンで掬い、一口、スープを口に含む。とても懐かしい味がした。
零れそうになる涙を、瞬きして誤魔化す。
柔らかく白いパンではないけれど、窯で焼かれたパンも凄く懐かしくて美味しい。
噛み締めれば噛み締める程、人の温もりを求めていた心が満たされていく。

「もう……一生食べれないと思ってた」

この時の俺は何度挑戦しても料理だけは壊滅的で。それ以降料理をしなければならないという必要に迫られることも無く。
神羅兵時代に実践した、料理とも言えない野戦料理ぐらいしか出来なかった。
だから、成長しても料理だけは苦手なままで。
それでも何千年と時を重ねていれば、どうしても食べたいと思う時があった。
たとえ、食べなくても死なない身体でも。
時代や文明の変化の中では、自炊をしなければ食べ物に有り付けない程衰退していた時代も経験した。

さすがに、それだけの時間を掛ければ少しはましな食べ物を作れるようには、なった。
少なくとも、劇物は製造しなくなった。
この事に関しては、すごい進歩だと自分自身で思う。
最初は食材の名前すら分からなかったぐらいで。まぁつまり、それだけ壊滅的だったんだ。
ただ、それだけ時間を掛けなければ、まともな料理を作る事も出来ないと言う事実には少し落ち込んだが。
けれど母さんの作ってくれた料理だけは、どうしても作ることが出来なくて、残念に思ったことがあったけ。

「美味しい」

自然と口元が綻んだ。
元々笑う事は少ないほうだったけれど、それでもニブルヘイムが炎に包まれるあの時までは自然に笑えていたと思う。
しかし全てが終わって落ち着いた頃にはもう、自然に笑うことが出来なくなっていた。
感情を、表に出せなくなった。
あの激動だった時代を生き残った末の後遺症か。または大切なものを失くし過ぎた弊害だったか。

またぐだぐだ考えそうになったところで頭を振り、最後の一口を飲み込んだ。
ごちそうさまでした、と呟いて食器を洗い場に持っていく。
つい最近もやっていた食器洗いを、ニブルヘイムの幼少期を過ごした実家で行うのは何だか不思議な感じだ。
している事は同じなのに状況が違い過ぎて。
一先ず水切り籠の中に洗った食器を置いて、布巾で拭き、食器棚に戻す。
曖昧な記憶だったので一瞬、何処に置いていたっけ、と悩んだけれど遥か昔のことなのに身体が覚えていたみたいで、苦も無く置くことが出来た。
まだ沢山残っているパンには埃が入らないように布を掛けて、食卓を布巾掛けしておいた。

洗顔や着替えなどを済ませて、鍵を持つ。
今の内に片付けられることを済ませておこうと思った。
扉を開けて外に出た途端、冷たい風が頬を擽って、四方八方に飛び跳ねる髪を揺らしていく。
まだ朝早い時間だからだろうか。
外には誰もいなかった。
昔見た風景と変わらない、ニブルヘイム。神羅によって全てが隠蔽された人工的なものじゃない、俺が知っている本当の……。
その事に意識しないままに詰めていた息を吐き出して、肩の力を抜く。
何千年と過ごした精神でも、トラウマはそう簡単には無くならない……。いや、長く生きているからこそなのかも知れない。
決して良い思い出ばかりではないこの場所。

幼い頃には、どうして自分が疎まれているのかも解らなかった。
その内、諦めて自分と他人は違うんだと思うようになった。一人で大丈夫だと、意地を張ったのだ。

崖から落ちたティファを助けられなかった後、事情を話す猶予すら無く、一方的にティファのお父さんに言われた言葉に、ショックを受けて。
碌に考えも出来ないまま、自分の家へと帰った。
家に帰れば俺の様子を見て驚いた母さんに、擦り剥いた膝の怪我を手当されて。
何も言わず俺を抱き締めてくれた。その時に、強くなりたいと思った。
守りたい人を守れるように。傷付けることの無いように。そして、強くなったら、認めて貰えると期待して。
だから、神羅に入って、ソルジャーになると誓った。

……もう遠い遠い昔話の一部でしかないけれど。

音を立てないように扉を閉めて、鍵を掛ける。
こんな田舎では、有っても無くても、そう対して変わらないだろうが。